シンガーのまきみちるさんがニューアルバム『My Songs from New York』をリリースしました。参加ミュージシャンはベテラン・ジャズピアニストのケニー・バロンをはじめとしたニューヨークで活躍するメンバー。そしてまきさんの盟友、ギタリストの直居隆雄さん。まきさんが敬愛する日本人作曲家の曲を中心に選曲されたこのアルバムは、まきさんの卓越した歌唱力と表現力により早くも名盤との評判も高く話題を呼んでいます。
今回はまきさんに直接お会いして、このアルバムの制作エピソードをたっぷりお伺いしました。
そしてまきさんといえば「若いってすばらしい」の大ヒット、その後スタジオ・ミュージシャンとして数多くのCM曲や歌手のバックコーラスに参加なさいました。そういった音楽キャリアについてもじっくり伺い、貴重なエピソードも盛りだくさん、このインタビューもぜひ沢山の方にお読み頂きたい充実した内容になっています。(2019年11月)


---まきさんは、2006年にエリック・ミヤシロさん率いるビッグバンドと共にフランク・シナトラの楽曲を歌うアルバム『MAKI'S BACK IN TOWN』をリリースされました。それから10年以上を経て、今回のアルバム『My Songs from New York』を制作しようということになった経緯について伺えますか?



まき:エリックにお願いし、サポートしてもらう事ができ、シナトラのトリビュートアルバムが出来上り、結果大変良い評判を頂きました。別企画で新たなアルバム企画がありましたが、作ってしまったら永久的に残るし、自分なりのこだわりもあり安直に作れなかったんです。CDを作りたいんじゃなく、どんな物が作れるか?という気持ちでした。

ただ、今回の事はその頃からずっと考えていた企画で。現実的にはとても運んでいくとは思っていなかったんですけれど、塚山エリコさんのオルガンジャズのライブを聴きに行った時、休憩時間にエリコさんにチラッとそんな話をしたら「みちるさん、やってみましょうよ!出来るわよ!」って言ってくれて。
それでエリコさんが、ニューヨークで活躍中の日本人エンジニアのAkihiro Nishimuraさんを紹介して下さって、Nishimuraさんに真ん中に立ってもらいケニー・バロンのサイドにオファーをかけました。

最初は色良い返事ではなかったんです。相手は私の事はもちろん知らないし。それで、エリコさんに頼んでエリックと作った音源などを送って聴いてもらったんですね。結果「これならエンジョイできるでしょう!」ってお墨付きを頂き、実現することになりました。

---今回のアルバムは、ほとんどが日本人作曲家の曲ですね。

まき:戦前にも戦後にも、ジャズの匂いを持っている作曲家のすごくいい曲がたくさんあるんですね。素晴らしい先輩方が作った曲をピックアップして、それを紡いだアルバムにしようと思っていたんです。
服部良一さん、ヴィブラフォン奏者の平岡精二さん、中村八大さん、宮川泰さん、いずみたくさん・・・。
大野雄二さんの「ラブ・スコール」は大好きな曲でしたが英詞を入れたくて、今回大野さんの承諾を頂きました。

村井邦彦さんが私に書いて下さった曲(「打ち明けて」)は、一度レコーディングしましたが形になっていなかったんです。しかし楽曲が素晴らしいのでどうしてもキチンと形にしたくてこのCD企画を考えました。直居さんの曲(「ライティングビューロー」)も同様です。
それから、ピアニストの美野春樹さんがご自身のアルバムで作っていた曲を「素敵ですね!」と言ったら、「歌わない?」と言われて。「歌詞があるのですか?」と聞いたら、歌詞はついていなかったんです。そこで急遽、友人でもある荒木とよひささんに歌詞を書いて頂いて。「演歌じゃないし、歌謡曲でもないけど書いて頂けますか?」とお願いしました。(「イン・ザ・スティル・オブ・ナイト」)

そうやってできた曲を紡いだアルバムなんです。

---ケニー・バロン氏と一緒にアルバムを作りたい、と思われた経緯について伺えますか?

まき:ケニー・バロンは、あまり歌の伴奏はやっていらっしゃらないんですよ。ただ、何人かの伴奏をやってるのを聴いたら、コードワークといい温かさといい素晴らしくて。出しゃばらず、それでいて主張もあって。
これはもうケニー・バロンしかいないと思い始めたんです。
それに日本の曲は、日本のミュージシャンはみんな知っている。なので全く固定観念、既成概念がないニューヨークのミュージシャンに曲を演奏してもらいたかったし、包容力のあるピアノでサポートしてくれ、それでいて存在価値がある、そうなるとケニー・バロンしか考えられなくなってきて。
それでお声をかけさせてもらった結果、トントン拍子に決まったので私自身もびっくりしちゃって!

---今回の演奏メンバーは、ケニー・バロンさん(piano)、北川潔さん(bass)、ジョナサン・ブレイクさん(drums)、直居隆雄さん(guitar)ですね。

まき:北川潔さんとジョナサン・ブレイクは、ケニーと3人でいつも演奏しています。でもトリオの名前は商標登録みたいなものなので、今回は使えないの。
直居隆雄さんは私の同士ですね。彼は私のことをよく「戦友」って言ってます。
曲のアレンジも直居さんと塚山エリコさんにお願いして、ニューヨークにも一緒に行きました。




---レコーディングは2019年7月1〜3日、ニューヨークのサムライ・ホテル・レコーディングスタジオで行われたとのこと。サムライ?どんなスタジオだったのですか?

まき:日本のスタジオとそう変わらないんですが、オーナーが大変親日家でね、それでサムライ・スタジオって名前なんですよ。確か刀や甲冑が置いてあったかな?私が寒いって言ってたら、持ってきてくれたのが着物で(笑)。日本びいきの優しいオーナーでした。

ニューヨークのクイーンズの方にあるスタジオなんです。もちろんアメリカ人の街もあるんですけど、チャイナタウン、コリアンタウン、ヒスパニック系などのタウンができているところでした。
今回は全然観光できず、スタジオとホテルの往復でしたね。日本を発ったのが6月29日。その日は旅の疲れを癒して、翌日はみんなでご飯を食べたりそれぞれ行動して、7月1日と2日はレコーディング。7月3日はちょっと歌の直しをして、それで4日に帰ってきました。足掛け1週間でしたね。

---レコーディング方法はどのようにされたのでしょう。歌と楽器は別々ですか?

まき:同時録音です。まずこういう曲ですよ、というサンプルをお聴かせして楽譜を渡してから始めるんです。そこからもう録音してるんですね。それで、「じゃあ本番やらせて下さい」って言ったら、「いや、もう録ってます」と言われて「え〜っ!?」と驚いて。そしたら「もう一回やります」と言われて、二回目でもうおしまい。
ジャズってそうなんですよね、何回も何回もやるものではない。インプロビゼーションの世界だから。そこでインスパイアされていろいろな演奏が出てくるわけです。
今回は歌だから、もちろん楽譜があって決め事があるんですけれど、雰囲気的にはジャズと言うわけだから、そこで紡いで出した音と言うのはやっぱり、ジャストインタイムというか・・・それが生きてる音楽って言うことなんでしょうね。

最初はちょっとびっくりしましたけど、ケニー・バロンのピアノを聴いていると、ずっと昔から聴いているみたいな感じがするの。
すごく惹き込まれて、二日目はすごくリラックスできて、あったかくて、抱かれているような感じの中で歌うことができました。




---ニューヨークでは、メンバーの皆さんとの交流はいかがでしたか?

まき:ベースの北川さんは30年以上もニューヨークにいらっしゃるから、すっかりニューヨークマンになってました。でも日本語話せるわけだし、とても明るくて楽しい方。たった2日間だけだったけど、打ち解けられて楽しかったです。何かの機会があったらまたお願いしたいと思うぐらい。すごく真摯に音楽に向き合ってる方だなあと感じました。

ケニーたちとも、音楽っていう共通言語があるから最初から打ち解けられて。ミュージシャンはそこが早いですよね。
ケニーは穏やかで謙虚な方。フランクっていうのかな?日本の歌手が来たけど伴奏してやってるぞ、みたいな感じは一切なくて、音楽の器の広さと人間の器の広さ。それを感じますね。

ドラムのジョナサンはめちゃくちゃ明るくてすっごくハッピーな人でね。お土産にお酒(日本酒)を持っていったら、すごく喜んでくれて。「お酒好き?」って聞いたら、「Oh! I like sake!」ってね(笑)。日本のお酒っていまヨーロッパでもどこでも人気があるでしょう?フルーティで美味しいってね。お米だけどね(笑)。




---アルバムが完成してリリースされて現在のお気持ちはいかがでしょうか。

まき:2006年シナトラのアルバムの時も意気込みはすごくありましたし、何とか枚数も売れたと思うんです。今回は自分でずっと抱いてきた企画で、一念発起で作ったアルバム。これは本当にみんなに知っていただきたいです。
自分の損得じゃなくて絶対良い作品だと思うので、これは絶対みんなに聞いてほしい。
伝えたいという欲望とか信念とか、責務っていうか。哲学的なものも感じますよね。
自信とかそういう一面的なものじゃなくて、音楽性を感じられるのかなあと私自身は思っています。

というのも、今回のアルバムで取り上げた楽曲の日本語の素晴らしさ。
服部良一さん作曲の「蘇州夜曲」、西條八十さんの歌詞。
「胸の振り子」のサトウハチローさんの歌詞。
歌っていてとても敬意を払える。大事に言葉を歌って伝えたいと言う気持ちが湧いてくるような詞なんです。
永六輔さんの詞も何曲かありましたけれど、本当に言霊を感じましたね。
あと村井邦彦さんが作った曲で、山上路夫さんの歌詞は、とても品の良いラブソングになっています。
やはり詞の力というのものに、こちらが触発されますね。

---ここからは、まきみちるさんの音楽キャリアについてお伺いいたします。
やはりなんといっても、まきさんと言えば大ヒット曲「若いってすばらしい」。私自身もう若くはないけれど、それでも聴いてていい曲だなぁ!と思うんですよね。


まき:あれはそういう曲じゃないんですよ。若い人だけのことじゃないの。
宮川泰先生が何千曲と作曲なさって、「恋のバカンス」「ウナ・セラ・ディ東京」などたくさんあるでしょう?そのたくさん作った曲の中で、先生が「これが一番好きなんだよ」と言って下さったのが、「若いってすばらしい」。
だから、先生の著書のタイトルも「若いってすばらしい」なの。

先日、服部克久さん、渡辺俊幸さんなど錚々たる顔ぶれのコンサートがあり、宮川先生の息子さん、宮川彬良さんがご自身のコーナーと司会をやってらしたのね。それで、最後の最後にアンコール曲が80人ぐらいのシンフォニーで「若いってすばらしい」だったんです。私、ただ聴きに行っただけなのに、「歌手のまきみちるさん、いらっしゃいますよね?」って急に言われて、舞台に駆け上って歌ったんですよ。
宮川先生が「若いってすばらしい」をどれだけ愛してらしたかを彬良さんもご存知で、それを歌えたことは私も光栄でしたし、今いろんな方がこの歌を歌っていらっしゃるから、それはとても良いことだと思うんですね。

「若いってすばらしい」は元々、NHKの「若い十代」という番組の"今月のテーマソング"だったんですが、とても評判が良くてさらにもう一ヶ月流れたんです。
この曲が出来る頃、私はたまたまフジテレビの「かくし芸大会」っていうTV番組のリハーサルだったんです。宮川先生と作詞家の安井かずみさんがリハーサル室にいらっしゃって、ものの30分もかからないうちにパーッと書かれて、ほんと早いの!素晴らしかったですよ。
私のイメージもあったんでしょうね。男の子みたいで、やんちゃで。

---当時のレコードジャケットもショートカットでキュートですよね。




まき:今も昔もそんなに変わらなくて(笑)。
そんなわけで、「若いってすばらしい」が完成して、翌年にレコーディングして発売になったんですよね。

---曲が大ヒットして、かなりのお忙しさだったでしょうね!

まき:そうですね。タレントですからね。
当時のスケジュール帳を保存していたのがあるんですが、1ヶ月に「オフ」という字が1日あれば良いほうでした。
当時はきつかったですけど、若かったからできたんですね。

---当時辞めたいとは思いませんでしたか?

まき:辞めたいと言う感覚自体がなかったんです。18,19歳の子でも、責任感がすごくあるんですよね。だからわがままも言えなかったですね。そういうものなんだろうな、と疑問も湧きませんでした。
でも、こちらもだんだん大人になってくるといろんなことが見えてきて、「私には全然合わない世界だな、歌だけやりたい」と思っていました。それなのにクイズ番組に出たりだとか、そういうのが苦痛だったのかもしれないですね。

---「若いってすばらしい」を作った安井かずみさん、宮川泰さんはどんな方でしたか?

まき:かずみさんは本当に素敵な人でしたよ。大好きでした。いろんな話をしました。恋の相談をしたこともあるかな?
打ち合わせがある時に表参道で道に迷っちゃって、かずみさんに迎えに来てもらったことがあります(笑)。「そこに立ってなさい!動かないで!」とか言われて。

宮川先生は明るくて面白くて、シャレが大好きでね。シャレが1分に1個出てくるの!ウケると喜ばれて。めちゃくちゃ明るい方。反面、すごく真面目な方でしたね。
デビュー曲の「可愛いマリア」も宮川先生のアレンジでした。
先生もジャズミュージシャンだったから、ジャズは私と先生の共通の話題でしたね。


---まきさんは、もともと、どのような経緯で歌手を目指されたのでしょうか?

まき:小さい頃から、のど自慢荒らしだったの。いつも出ては優勝して。
それからセミプロのようになり、オファーがあったものだから、関西のジャズ喫茶やナイトクラブで歌っていたんです。人前で歌うのが好きじゃなかったから、「なんで私がこんなことしなきゃいけないの?」って、歌の間奏のとき、ふわーっとあくびしてたぐらい(笑)。
そこでスカウトされて東京に出てきて、1年ぐらいは米軍キャンプや都内のジャズ喫茶でずっと歌ってたんです。
その頃、TVでは「シャボン玉ホリデー」「ザ・ヒットパレード」が始まっていましたね。

---1963年に関西から上京されたそうですね。

まき:東京オリンピックの1年前ですよね。ワシントンハイツという米軍キャンプや、将校たちの使うクラブとか、そういう場所に日本人のミュージシャンたちが演奏しに行ってたんです。それで私も、横田、横須賀、座間、府中などの米軍キャンプ、それに汽車に乗って三沢とか九州の佐世保にも歌いに行ってましたね。

そのちょっと前の時期からジャズがすごく好きになっちゃって。
その当時のポップスがその後スタンダードになっていくでしょう?ミュージカルの中の曲が、今のジャズのスタンダードになったりしているわけですよね。
そういうのを歌っていたら、演奏のジャズがすごく好きになっていって。モダンジャズ、アート・ブレイキーから始まって、少しずつ少しずつジャズというものが分かってきて。
お金がなくても貯めてジャズのLPを買ってました。給料が10,000円やそこらで、LPは確か当時1650円ぐらい。相当高価なものなんですよね。お給料を貯めてLPを買うようにしてましたね。だからLPは何千枚も今でも捨てないでありますよ。
その頃からジャズが大好きで、ジャズが自分のテイストの中に、きっちりとベースにあるんだと思います。

---1965年渡辺プロダクションに所属、日劇の『クレージー・キャッツ、ザ・ピーナッツ・ショー』でデビューされたんですよね。クレージー・キャッツとの交流はいかがでしたか?

まき:ツアーがあって、よく旅も一緒に行きましたね。皆さん亡くなられて、今ご存命なのは犬塚弘さんだけですよね・・・。ちょうど皆さん、私の父と同じぐらいの年齢だから。

---ドラマなどTV番組にも当時出ていらしたんですよね。

まき:ドラマはね、レギュラーで「いとはんと丁稚どん」というのに出て、ずっと大阪に通ってたんですよ。
大村崑さん、三沢あけみさん、花紀京さん、万代峰子さんなどが出てましたね。ゲストには伴淳三郎さんなど凄い方が来るんです。そんな中、レギュラーで出ていました。

あとは象印の何かの番組の司会。でもほとんど喋らない司会でね。喋るのがすごく苦手でした。
TBSの「みんなで歌おう!」という番組にも出てました。ダーク・ダックス、私、梓みちよさんがレギュラーで、司会は小島正雄さん。「11PM」などに出てらした大御所ね。編曲担当は服部克久さんや川口真さん。まだ若い頃でしたね。その時は本当に忙しくて、でも、そういうものだと思ってやってましたね・・・。

---芸能界にいらしたのは、割と短い期間だったそうですが・・・。

まき:私は芸能界がとても水に合わなくて。音楽をやりたかったのに、そうじゃない部分がけっこうあったりしたから。18,19歳の頃はバークリー音楽院に行きたかったんです。
そのときバークリーに行ってたのって、秋吉敏子さんと佐藤允彦さんぐらいだったんですよね。
私はボーカルの勉強で行きたかったの。本気でやるならジャズしかないと思っていたのね。だけどうちの父が許してくれなくてね。

---まきさんのお父様は音楽のお仕事自体反対だったのでしょうか?

まき:最初は父は反対してましたねえ。父は、私がタレントであろうとなんであろうと、自分の娘は娘!っていう目しかないから。そういう意味では厳しい父親でした。
父はクラシックばかり好きでね。音楽は好きですけど、ジャズやポップスは全然わからなくて。

両親はとにかく仲の良い夫婦なんですけど、その仲の良い夫婦が別居して、母を私に付けて東京に一緒に行かせたんです。そんな仲の良い二人の決断、結論が私を応援しようということになって。私にもそれがひしひしと分かるから、応えなきゃ!っていうのがあって。でも芸能界最後のほうは、もうアップアップしてましたね。じゃあ辞めたければ辞めれば?っていうことになって芸能界引退。

---そんなまきさんも、ご両親の晩年には何度かTV番組に出られたそうですね。

まき:オファーは全てお断りしていたんです。テレビはもう絶対出たくないと言って。
でも、弟に「お姉ちゃん、それはお父さんお母さんの一番の親孝行だよ。誰にも僕らにもできないから出てやれよ」そう言われて。それでNHK「思い出のメロディー」「NHK歌謡コンサート」、それにテレビ東京にも数回出ました。両親は喜んでくれましたね。
その後、母が亡くなり、父が追いかけるように亡くなって。ついこの前父の七回忌をやったばかりなんです。その後もオファーは頂きましたが、もう父もいませんし今後は一切出ませんとお伝えしました。

---何よりの親孝行だったでしょうね・・・。話は戻りますが、芸能界引退後はフリーでスタジオミュージシャンをなさったそうで、コーラスで有名な伊集加代さんとご一緒されていた時期もあるそうですね。

まき:はい、伊集さんから声をかけて下さって、「私、無理無理!譜面読めないから」って言ったんだけど、「絶対大丈夫できるから」と言われて、教えてもらいながら。
それからディズニーランドの仕事とか大きい仕事が入ってきたんですね。沖縄博覧会とか横浜博覧会のテーマソングとか。ディズニーランドは25年ぐらいやりました。他にもピンクレディー、ユーミン、郷ひろみさんなどのバッキングをやりました。
でも何の曲をやったかは、忙しすぎて全然覚えてないの。

---あの頃(70〜80年代)は歌謡曲が全盛期で、スタジオミュージシャンのレコーディングは凄まじかったと聞いています。

まき:朝から夜までスタジオの掛け持ちをやっていました。なので、スタジオを出たら5分で忘れてます。
コマーシャルも2000曲以上やってますからね。今でも、自分のやった曲が流れていてもわからないの。

スタジオミュージシャンはすごいでしょう?楽譜見て、みんなで「せーの!」でやっちゃうんだから。
私は最初ビクビクだったけど、声が掛かった以上はやっていかなきゃならない。だからものすごく鍛えられました。

---このWEBマガジンの恒例企画なのですが、まきさんにとっての「Cheer Up!ミュージック」を教えて頂けますか?

まき:スティーヴィー・ワンダーの「Isn't She Lovely (可愛いアイシャ)」と「I Wish」です。それから、アース・ウィンド・アンド・ファイアーの「September」。この3曲は聴けば急に元気になっちゃいます!
この3曲は自分の気分を高揚させてくれるの。もうホントに元気になりますね。
あとはビートルズも大好きです!

---どのアルバムがお好きですか?

まき:やっぱり好きなのは、『Abbey Road』と『Rubber Soul』ですね。
『Rubber Soul』は1曲目の「Drive My Car」が大好きで。あの曲も元気になりますね!

---ジャズでは、どんなアーティストを聴き続けていらっしゃいますか?

まき:マイルス・デイヴィスです。16歳のときに「うわーっ!」となってしまったんですよね。

---マイルスのライブには行かれましたか?

まき:行きました。エレベーターで一緒になったこともあるの!そのときは興奮しましたよ。マイルスと一緒にいる〜!って思ったら、「うぉ〜〜っ、どうしよどうしよ?」って(笑)。
何も話せなかったけど、ホテルのエレベーターだったから、「ここのフロアでいいですか?」って押したら「Thank you!」(編集部注:まきさんがダミ声の物真似をして下さいました!)って出ていっちゃった(笑)。
そんなに背は大きくないんですよ。派手な洋服にあのメガネだからそれはもう一発で分かりました。(笑)。

あと、マイルスとも一緒に演っていたビル・エバンスも、ものすごく好きです。この前もドキュメンタリー映画を観てきました。

---まきさんは長年歌い続けていらっしゃいますが、やはり喉のケアなどなさっているのでしょうか?

まき:何もしてないです(笑)。ただやっぱりね、喉はスポーツと一緒で筋力なんですよ。だからそれはどんなに鍛えていても年齢と共に衰えていく。喉もいつかは衰えがくると思うんですよね。
でも音楽やお芝居は老け役ができるの。トニー・ベネットが93歳でも現役でしょう。年輪と経験と人間臭さとあいまって今もすごく魅力的な歌声ですよね。レディー・ガガとデュエットしたり。トニー・ベネットの存在は私にとってものすごく大きいですね。あの人が頑張ってるから私も頑張ろう。まだ頑張れる!20年以上ある!って思っちゃう。

方法を変えていけば、ちゃんとケアをしていけば長くやっていけると思うの。絶叫型は出来ないけれども、語り型はできるでしょ?そういう魅力が出たらいいなと思うんですよ。
例えば、俳優の佐分利信さんはご存知かしら?

---はい、存じております。佐分利信さんのお孫さんである、ジャズサックスプレイヤーの石崎忍さんにも最近インタビューさせて頂きました。

まき:え〜っ、お孫さんがサックスプレイヤーなの?佐分利信さん、大好きだったんですよ。元々若い時からかっこいいでしょう?その後、だんだん山本薩夫監督の作品などで重厚な役柄になっていき、最後のほうは「阿修羅のごとく」で浮気する初老の男性を演じて。重厚感があり、それでいて老人の物悲しさとか出てらして。役者は年齢を重ねてもああいう風に出来るわけでしょう。
歌もそういう風になれたらいいなと思う。
今は声も出てますけど、いずれ出なくなるのは物理的なものだから仕方がない。それにとってかわるもの、ちゃんと人の気持ちに伝わるような歌い方をできるようにしておきたいな。そうするには健康でいなくてはいけないと思います。




---今後の展望について伺えますか?

まき:このアルバムをできるだけたくさんの人に知ってほしい。
まだ何をやりたいかは具体的に思い浮かばないけれど、次に繋がるような展開が出来たらいいなと思っています。そういう覚悟みたいなものがあります。

これは私にとって大事なことなんですけど、歌はジャズだからといって、フェイクしたりいじったりしてないんです。作詞作曲家にリスペクトしてるので、決していじらないで、ただ、”雰囲気的に”ジャズ。ジャズの雰囲気で歌ってるのと、そうさせてくれてるのがケニーなんですね。ケニーがジャズのモードで包んでくれている。私はまったく楽譜通りに歌ってる。でも聴いたらジャズになってる。
そういう風に思ってもらえたら、私の狙いとはマッチすると思うんですよね。

---本当に何度聴いてもまきさんの歌声に魅了される素敵なアルバムです。ぜひ多くの方に聴いて頂きたいですよね。
本日は長いお時間、貴重なお話をありがとうございました。


※インタビュー協力:塚山エリコ




『My Songs from New York』まきみちる

1. ラブ・スコール (M.McDermott/C.Jones/大野雄二)
2. 君をのせて (岩谷時子/宮川泰)
3. イン・ザ・スティル・オブ・ナイト (荒木とよひさ/美野春樹)
4. 黄昏のビギン (永六輔/中村八大)
5. 見上げてごらん夜の星を (永六輔/いずみたく)
6. 胸の振り子 (サトウハチロー/服部良一)
7. 河のゆくえ (山上路夫/村井邦彦)
8. 蘇州夜曲 (西條八十/服部良一)
9. 爪 (平岡精二)
10. ライティングビューロー (森野みえ/直居隆雄)
11. 打ち明けて (山上路夫/村井邦彦)
12. メイビー・セプテンバー (R.Evans/J.Livingston/P.Faith)

[メンバー]
まきみちる (ヴォーカル)/ Michiru Maki (vo)
ケニー・バロン (ピアノ)/ Kenny Barron (p)
北川潔 (ベース)/ Kiyoshi Kitagawa (b)
ジョナサン・ブレイク (ドラムス)/ Johnathan Blake (ds)
直居隆雄 (ギター)/ Takao Naoi (g)

[録音]
2019年7月1〜3日/ サムライ・ホテル・レコーディングスタジオ (ニューヨーク)

発売日:2019年11月7日
レーベル:OTTAVA records
規格品番:OTTAVA10001




■まきみちるプロフィール

65年、ペギー・マーチのヒット・ソングのカバー曲「可愛いマリア」でレコードデビュー。翌66年に「若いってすばらしい」(作詞: 安井かずみ/作曲: 宮川泰)が大ヒットし、一躍、当時のポピュラー・シーンに登場する。70年に第一線の歌手活動を引退したのち、スタジオ・ミュージシャンとして活動を再開。彼女がヴォーカルを担当したCM曲は2000曲にのぼる。また、バックコーラスとしての活動も活発に行い、岩崎宏美「ロマンス」「霧のめぐり逢い」、山口百恵「しなやかに歌って」、沢田研二「サムライ」、ピンク・レディー「モンスター」など、数多くのヒット・ソングのレコーディングに参加している。2006年、自身初のジャズ・アルバムとなる「マキズ・バック・イン・タウン」をリリース、絶大な人気を誇るトランペッターのエリック・ミヤシロが率いるビッグ・バンドと共に、敬愛するフランク・シナトラのナンバーを歌い上げた。

まきみちる Official Web Site
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